嘉永4年(1851年。貞心尼が54歳のとき)4月、10年間住んだ釈迦堂が類焼したので、外護者の山田静里らが中心となって、広小路真光寺の側に八畳・四畳・三畳の庵室を建ててくれました。 「不求庵」と名付けられたこの庵に貞心尼は、弟子の孝順尼(19歳)とともに、9月中旬頃に移り住みました。 貞心尼の不求庵の生活は、時々、山田静里らの風流人が集まって歌会を催していたので、平和な日々を送ることができました。 安政6年(1859年。貞心尼が62歳のとき)5月14日、長岡市荒屋敷町の高野治郎兵衛の娘で、常福寺広寛禅師の実家の生まれの智譲尼が8歳で弟子となりました。 同年12月8日、剃度師であった泰禅和尚が示寂されました。 貞心尼はここで没すまで22年間住み、明治5年2月11日の午前2時過ぎ、静かにこの世を去られ、75歳の生涯に幕を降ろしました。 病の床につかれてから、死期の近づいたのを知ったのか、「玉きはる 今はとなれば みだ仏といふより 外に言の葉もなし」「あとは人 先は仏に任せおく おのが心の うちは極楽」などと詠んでいます。

INFO基本情報

名称 不求庵跡
(フグアンアト)
住所 〒945-0066 新潟県柏崎市西本町 アクセス

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